ブログ始めます

気付けばもう40代。とっくに夢は諦めて毎日ただ働いて飯食って寝るだけの毎日

生きてる意味なんてない気がするけど死にたいなんて思わない

何か始めようと思っては途中で投げ出して

自分ってこんなだったのかな?


過去の自分はもっとエネルギッシュでガツガツしていた気がする

歳と共に見かけよりもそっちの方が衰えている気がした

後から気づいたのだけど、これは「ミッドライフクライシス」と呼ばれるものらしい

でもとにかく行動しないことには何も始まらないと思い今までもトライアルアンドエラーを繰り返してきた

振り返ってみる人生


自分のこれまでを書いてみたいと思う

情報発信する人の個人的なイメージだけど、学歴だったり仕事だったりで何か事を成してきた人が多いイメージがある

僕の場合はそれとは程遠い

中学生の頃に楽器に目覚め勉強そっちのけでのめり込み、通っていた塾も辞めて底辺高校に入学

その後レコード屋に貼ってあった音楽教室の張り紙を見て入ってみると、なぜか30代、40代の先生達と米軍基地の中で演奏することになった

今思えば自分の人生の中でもラッキーだったなと思える経験だった

しかし高校2年の夏頃から原因不明の金属アレルギー症状が出るようになる

これが厄介で楽器の弦にまで反応してしまい弾いた後は夜も眠れね程に指を掻きむしってしまいただれるようになる

この後練習からはすっかり遠のいてしまい、かといって楽器を辞めることもなく無気力に続けることとなる

この頃はバブルが弾けた後で氷河期世代と呼ばれる時代だった

進学する意味なんて考えたこともなかったので選択肢にも上がらず、かといって就職することも考えもしなかった

ただ無気力の延長線上にあってフリーター生活が始まった

米軍基地でやっていたバンドと並行して同級生とオリジナルバンドも組んでいたのだが、やる気があるのかないのかといった状態でなんとなく続けていた

酒を飲んではウダウダして暇だから何か面白いことはないのかと探している日々

転機が訪れるのは24歳となった。いい加減に身の振り方を考えないとと焦ってきた頃だった



音楽活動の本格化そして上京


高校卒業から何年も経ち、バイトしては辞め遊んでは金に困りバイトをするという繰り返し

飽きてもくる。そして現実に引き戻される

「あれっ? 俺って何やってるんだっけ?」

金属アレルギーは相変わらず続いていて長時間弾き続けるのはキツい

でも無理なんだったらいっそのこと辞めて他の道を探した方が良いんじゃないって普通に考えたら分かることなんだけど、俺は音楽をやるとかボヤキながらダラダラと続けていたわけ

もう辞める前に限界までやってみるしかないと思ってその日から練習を始めた

そうしたら不思議とアレルギー症状が出なくなった

「病は気から」

って本当にあるんだなって思った

その後はオリジナルバンドの方に絞って活動を開始

しかし今思ってみれば音楽なんて無茶苦茶だしもう一度聞きたいなんて思わないんだけど、とにかく夢中でやっていると賛同してくれる人もチラホラ見つかって

運良く面倒を見てくれるレーベルに見つけてもらい、全国のライブハウスを回ったりするようになる

東京にも毎月通うようになり次はメジャーで出そうなんて話が来た時に一転することになる



一緒に活動していたメンバーから「結婚するのでもう今後バンドに集中して活動はできない」と告げられる


自分としてはもうイケイケドンドンな状態だったので細々とバンドを続けるなんて選択肢などあるわけもなく


「じゃあバンドは活動休止にして俺は一人で上京する」

と言い放った



その当時は付き合っていた彼女もいたけどその彼女も置いて、売れるものは全部売って下北沢の4畳半の風呂なし共同トイレの家に住むことになる



東京物語


前バンドの後期には毎月のように都内でライブをしていたこともあって、バンド仲間やライブハウス関係の人たちのお陰で一人ぼっち感は全くなかった

とにかく名をあげてやるって思っていた

当時は練習を重ねた根拠のある自信だと思って「俺は誰にも負ける気がしない」と言い放っていたが、今考えると根拠なき自信だと気づく



だって上を見上げれば圧倒的な才能とテクニックとカリスマ性を持つ人たちはごまんといる


でもそれが言えるって重要だなと本当に思う。当時から自分より優れている人たちが沢山いることも知っていた

しかし「人は人、自分は自分」という自己肯定感を保つうえで大切な部分を持っていたということだ




サポートのバンドに参加したりしながら上京した翌月からは途切れなくライブハウスのステージに立った


良さそうな話を掴みかけては逃しそんなことの繰り返し



彼女に振られてもう故郷に帰るなんて弱音を吐いたこともあったが最終的には立ち直った



毎晩下北沢で飲んでは泥酔していた青春時代



そこからどうやって自信を無くしたおじさんが出来上がっていくのか…




結婚そして離婚


そして時は流れすっかり自信を無くしたおじさんがいた



何年も抗ってはみたももの歳も30代の半ばを過ぎていた


数年前に結婚した奥さんの間には子供を授かったものの子供を養い育てていけるだけの甲斐性はなかった



完全に折れた

もう音楽はできないと諦めて殆どの機材を売りに出しお金を作った



借金は親に立て替えてもらい返していくことにしたが、どう考えても都内で養っていけると思わず故郷に帰ることにした

通常の考えでは田舎で就職を探してというのを想像するかもしれないが、ここがまだ諦めきれなかった



自分で何か商売は始められないものか?


色々考えた末に移動販売車を使ってフードを売るということにまとまった


地元の移動販売車を訪ねたりしてコミュニティを築きアドバイスなどももらった


そしてまた借金をして移動販売車を買った

ちょっと手直しすれば使えるようになると思っていたのが甘かった


かなり修理しても使えるようにならず、このままでは運転資金もままならない状況になった



また断念した



しかし凹んでなんかはいられない。すぐに仕事を探しに出た



そして古巣の米軍基地内の仕事を始めることができた


これも運がよかったと思う



安定はしてるのだけど給料は少ない

産後に奥さんの持病の悪化したことでお金も掛かるようになりケンカが絶えなくなった


不満も沢山あったのだろう



ある日仕事から帰ってくると置き手紙を残して子供と一緒にいなくなった


その後離婚は成立したが子供にはあえないままだ




そして現在まで


音楽と子供という大事なものを2つ失ったショックは大きかった



だが都合の良い逃げ道として働くことを選んだ

働いている間はこの事を忘れることができたし疲れて寝てしまえば考えるどころではない


返さなければならない借金は山程あったのも理由だけども


仕事を3つ掛け持ちし寝る間を惜しんで2年働いた



借金も返し少し自分の時間を持てるようになった


そうすると傷が疼きだす


もうやりたい事なんてないのに何かしないと虚無感に襲われる



ここまで読んでくれた方ならお分かりかと思うが、普通の会社員として生きるのが自分には難しいのだ


何かしたくなる


そして仕事を辞めた



かといって何をしたいなんてない


そうしていると漠然と海外というワードが出てきた


そういえば高校を卒業して二週間程アメリカをバックパックを担いて回ったことはあった


しかしそれ以来どこにも行っていなかった


ちょうどコロナも落ち着いて海外に出やすくなった時期でもあって思い切って行ってみることにした


ここで東南アジアのタイとフィリピンを選択して二週間行く事になるのだが、これがキッカケでその後フィリピンのセブ島に2ヶ月英語留学することになり、その時に現地で知り合ったフィリピン人の友達に家を無償で貸してもらえることになり更に5ヶ月滞在することになる


何とかして海外で生きる術を身に付けたいと思いながら備忘録として書いていきたいと思う